第12話 最後の買い付け喜多川歌麿 (1/1)

センターの俺の部屋には一枚の浮世絵が飾られている。とても美しい女性が描かれた肉筆画だ。作者は「東洲斎写楽」寛政の時代に風の様に登場して。あっと言う間にその存在を消した謎の絵師だ。 俺と、この肉筆画に書かれている女性、桂さきと江戸時代の駐在員、山城、坂崎同心の四人はその秘密に迫り、遂に新しい肉筆画を描いて貰う事に成功した。ここにある絵はそのうちの一枚なのだ。 絵の中の人物は、何時も俺を見つめていてくれている。僅かに微笑み、少し愁いを帯びた眼差しで俺を見つめてくれている。俺はこの絵を見る度に幸せを感じるのだ。 勿論、実際のさきも仕事の合間にここに来て絵を眺めて行くが、本人の目的はどうやら、絵を眺める事が主目的ではないようだ。

「光彩さん。いよいよ最後のターゲットが決まりましたよ」 食堂で朝食をとっている俺の前に、さきが元気よく登場した。「最後って、そうか、もう、そうなのか」 俺はいつの間にか、こうやって江戸時代に浮世絵を買い付けに行く事がずっと続く様な気がしていたが、それもとうとう終わりがやって来た事を感した。「そうか、で、今度は誰の絵を買って来るんだい?」 さきに尋ねるとやや興奮気味に「喜多川歌麿です。あの美人画で名高い歌麿です!」 やはり喜多川歌麿か、寛政から文化の時代にかけて美人画を描き続けた不世出の絵師だ。その描いた作品の量もさることながら、手鎖の刑を幕府から与えてられても、作風を変えなかった硬骨漢でもある。「歌麿か、それは凄いな。歌麿のどの時代なのだ? 寛政なら、また山城さんに会えるかな」 俺の軽い冗談めかした口にさきが「何を買うかは今、精査しています。『寛政三美人図』も良いですし、『ポッピンを吹く女』も良いですからね。寛政二年から三年にかけて描いた『婦女人相十品』や『婦人相学十躰』で有名になりましたね。そうなるまで援助していたのが蔦屋さんですね」 俺は、さきの言った事で、この前関わりあいを持った蔦屋重三郎を思い出していた。圧倒的な存在感を持ち、それでいて柔軟な思考を持つ大物だった。「今回、実は面白い成り行きになりそうなんです」 さきの表情が楽しそうだ。同行員と顧客が個人的な関係になる事は禁じられているので、俺とさきは清い関係だ。本当はもっと積極的になりたいが、そうも行かないのだ。「面白い事って、一体何だい?」 俺はさきに尋ねると彼女は俺の驚く事を口にした。「歌麿の浮世絵を世界で一番所蔵している美術館って、どこか知っています?」「いいや、そうさなぁ~ イギリスあたりかい?」「いいえ、アメリカのボストン美術館なんです。三百八十三点も所蔵しているんですよ。それも公開を長く禁止していたのでに非常に保存状態が良くて、すぐに退色する絵の具のツユクサの紫色もよく残っていると言われているんです。これを面白く思わないのがイギリスのヴィクトリア&アルバート博物館で、ここにも歌麿の浮世絵があるのですが、質、量ともボストンに完全に負けているんです。そこでイギリスの組織は自分の国の美術館の浮世絵を充実させる為に、この前の長屋を荒らしたのも、そいつらです。でも、完全に失敗に終わりました。そもそも、あの時代に白人は江戸の街には居られませんので事実上買い付けが困難なんです。そこで、我々の邪魔をすることを止めて、こちらの組織と協定を結ぶ事を提案して来たのです」 さきが言った事は本当に驚く事だった。それはそうだ、この前までお互いに妨害工作やら、価値の暴落防止の為に買い付けを阻止して来た間柄なのに急に協定を結ぶなんて……。「まあ、上の方は前から交渉していたそうなんですが、我々下っ端には判らないですからね。何でも、日本を含むアジアの美術品に於いては、イギリスの組織が買い付けを行う時は我々を必ず通す事。逆にイギリスとエジプトや大英帝国の領土だった地域の美術品に於いてはイギリスの組織を通す事と決まったそうです。その他の地域に於いてもお互いに協力するという方向で決まりました」「それ以外の地域って、具体的にはどこなんだい?」 鈍い俺の頭を諭すように、さきは「主にヨーロッパですよ。それからアメリカもその他になるみたいです。そしてスペインの植民地だった地域も入るそうです」 そうなのか、ならばこれからは、この組織も世界を股に掛ける事になるのかと思った。まあ、今の俺に関しては、これで安心して買い付けが出来るという事だと理解した。 それから数日後に俺とさきが行く時代が決まった。千八百二年の享和二年の春という事だった。向こうには山城同心が待っていてくれるという。何故か坂崎同心も再び来てくれるという事だった。「買い付ける浮世絵も決まりました。組織から来たら連絡によると、まずは『立姿美人図』です。これは重要美術品に指定されているものです。これは寛政五年から八年の間に書かれたものですので、蔦屋さんから買い求めます。もう一点は『桟橋二美人図』です。組織からのデーターによると、これも数が少ないので収集家が欲しがってる浮世絵の一つです。これも寛政年間の作ですが蔦屋さんが亡くなってから書かれたものなので、享和で買い求めます。あと一つありますが、それは私の買うものなので秘密です」 なんだ、何か最後はゴニョゴニョ言っていたが、まあ良いか。要するにまた、あの頃に行くという事なのだと理解した。でも、重要美術品って、そう幾つもあるだろうか? 俺は少し疑問に思った。「さき、その『立姿美人図』を蔦屋さんから買うのは良いが、享和だと蔦屋さんは亡くなってるだろう。どうするんだ?」 俺の疑問にさきは「実は、山城さんに頼んでもう買ってあります。当日持って来てくれる手はずになっています」 そう説明したくれた。ならば買うのは「桟橋二美人図」だけなのかと思っていたら、さきがタブレットでその二つの絵を見せてくれた。「ほら、両方とも女性が紫の着物を着ているでしょう。特に『桟橋二美人図』の左側です。この色が落ちやすいんです。この前言ったツユクサの紫色なんです。それから『立姿美人図』の青も退色しやすいので、状態の良いのを欲しがってるコレクターは大勢います。うまく売れれば光彩さんの負債は完済してお釣りが来ます。最も、その分は、色々な時代の才能があり恵まれない芸術家の援助に使われます」 さきの言う事を聞いて、組織はそんな援助も行ってるのだと理解した。「で、何時行くんだ」「明後日に決まりました。明後日は早朝から支度に取り掛かりますからね」 さきは、そう言って「仕事が終わったら、夜にでもお部屋に伺います。壁の絵を見に行くんですよ」 そんな事を言って消えて行った。 俺はそこまで言われて、さきが俺の部屋にあの絵を掛けた理由を理解した。そうなのだ、個人的な関係を結べない間柄の俺とさきだが「絵を見に来る」のなら俺の部屋に来ても問題ないという事なのだと理解した。考えたものだと思った。俺は、漠然と嬉しがってただけだが、さきは、その先も考えていたのだ。こりゃ良い嫁になると思った。 そして、いよいよ俺とさきの、恐らく最後になるタイムワープの日がやって来た。目的日時は享和二年の三月一日。場所は神田の長屋だ。「それでは良いですか。では行きます!」 若干意識が遠くなり、俺とさきは抱き合ったまま、時空のトンネルを抜けたのだった。

気がつくと神田の長屋だった。この前と何年も経っていない。やはり、山城同心と坂崎同心が俺達を待っていてくれた。だがいきなり「さき、こうすけ。今回の買い付けは無理だ。はなっから出来ない相談だったんだ」 山城同心がそう言って俺達を驚かせた。「無理ってどういう意味でござんすか?」 さきが顔色を変えて言うと「『桟橋二美人図』『立姿美人図』この二つは錦絵ではない。肉筆画だ、一点しかないのだぞ。それをどう手に入れる。大体こうすけの時代では代々の持ち主まで判明しているだろう。そこをどうひっくり返すのだ。それに、成功したら歴史が変わる。俺達はそもそも未来の歴史を変えない為に歴史に繋がる重要な人物を助ける組織だぞ。その根本をあっさり覆して良いのか? 今回の組織の指令はおかしいと思ったんじゃ」 山城同心が搾り出す様に言うと坂崎同心も「組織も無理なことを言うと思ったのだ」 二人の言葉を聴いていたさきは、顔色を変えて座り込んでしまった。きっと今までこんな経験は無かったのだろう。 それに俺が思った疑問が的中したことにも驚いた。「一旦帰って、事情を本部に説明した方が良いのではないか」「うん。ワシも山城殿の考えに賛成じゃ。無理な注文だったと伝えて来た方が良い。そして正しい注文を訊いて来た方が無難だと思うがな……もしかしたら、間に入った人物によって操作されていた可能性も考えられるとは思わんか?」 山城、坂崎二人の先輩駐在員がアドバイスしてくれた。 暫く考えこんでいた、さきだったが気がついたようで「そうですね。光彩さんの為にも事情を説明して来ます。私も良く調べもせずに、うかつでござんした。戻って来るでござんす」 俺は、さきもうかつだったが、あの二枚の絵を肉筆画と言わないで錦絵と伝えた者がいると思ったのだった。このままさきだけを帰せば、また何かあるのではないかと俺は思った。「さき、帰るなら俺も行く。一緒に行って、間違いの原因を調べる」 俺の言葉に山城、坂崎同心は「こうすけはこちらに留まって居ても良いと思うのだが、仕方ないな。どこで間違ったか、あるいは、さきを騙す奴が間に居たのか、徹底して調べれば良い」 そう言って応援してくれた。「では、来たばかりですが、一旦帰る事にします。解決したらまた宜しくお願い致します」 俺はそう言うとさきにタブレットを出させ「早く帰って原因を突き止めよう」 そう言って、再びタイムワープをしたのだ。

さきは、センターに帰って来ると中央カウンターに出向いて、そこにある本部に直接繋がるモニターのスイッチを入れた。「もし、もし、こちら訓練センターのさきです。本部ですか? 非常事態です。指令が間違って伝わった可能性があります」 そう言ってから、事情を説明し始めた。驚いた事に本部からの指令では買い付けは「寛政三美人図」「相合傘」の二枚だったのだ。「どこで、間違いが起きたのでしょう」 呆然とするさきに本部の係員が、重要なニュースを伝えて来た。それは「桟橋二美人図」を収蔵しているMOA美術館に盗賊が入り、この重要な肉筆画が盗まれたのだという。「大変な事になりましたね。今回の事と関連があるのでしょうか。そして、私に違う指令を与えたのは一体誰でしょうか?」 さきの質問に本部では「調査する」と言ってそのまま切れたみたいだ。俺は本部からさきに指令が伝わる間に誰が関わっていたのかが判れば良いと思った。「さき、本部の指令を誰が君に伝えるんだい、その人間が怪しいのではないだろうか?」 俺が考えを伝えるとさきは、顔色を変えた。「そ、それは」 それだけを呟くと、さきは急いで飛び出した。後を追う俺。 さきは、階段を登り、センターでも普段から女子の同行員が多く暮す階に向っていた。さきは心当たりがある。 俺はそう結論付けた。 さきが、ある部屋の扉を開けた途端に何かがはじけたような乾いた音が聞こえた。さきがもんどりうって倒れる。ひょっとして、拳銃か?!「さき!」 俺はさきを抱き起こして揺さぶると、薄っすらと目を開き「私は大丈夫です。光彩さんも気をつけてください」 どやら腕に怪我をしたみたいだった。すぐに口を開いたので、とりあえず命に関わる事はないと思い、静かにさきを寝かせると、部屋の中に飛び込んだ。 薄暗い中に人影があった。俺に向って拳銃が向けられていた。俺は足元にあったスリッパを投げつけた。 二発目の弾が発射されたが、スリッパが相手の腕に当たり拳銃を落とした。弾は見当違いの方向の壁に食い込んだ。幸いにも俺自身には遠い位置だった。 俺は薄暗い部屋に立っている人物に飛びかかって、思い切り蹴りを腹に加えた。そして、落とした拳銃を取り上げた。銃声を聞いて多くの人間が来てくれたので、もう逃げ道が無くなったと思ったその人物は開き直って「ああ、失敗だったよ。うまく騙して江戸に向かわせたと思ったのにね。世界中に恥をかかせて、また各国で啀み合いに持って行く手はずだったのだがね。もうこうなったら、あたしも終わりだね。だがね、MOAの方はうまく行ったみたいだね。じゃあ逃げるとしようか、これでも逃げる事は出来るんだよ」 そう言った人物は若い女だった。さきが声をかける。「たまちゃん。馬鹿な事は考えないで!」「さき、おさばらだ。あたしは、優等生のあんたの事ずっと嫌いだったよ」 さきにたまと呼ばれた女はタブレットを操作すると。その姿はそこから消えて行った。組織の同行員だったのか。 俺は急いで、さきの元に向かい、さきの容体を確かめる。駆けつけて来た人が医師を呼んでくれた。 さきを抱き起こすとやはり腕から血が流れていた。俺がその血が出ている場所を確かめようとすると「貸しなさい。素人では無理だ」 その声の方向を振り返ると医師だった。

今、さきは治療を受けて静かに寝ている。弾が腕をかすり、かなりの部分がエグれて出血したのだ。その部分を縫い合わせ、消毒をして包帯を巻いた。治療そのものは俺の時代と変わらなかった。現代でも使われているが、縫い合わせた糸は吸収されて無くなってしまうタイプだったが、止血剤が凄かった。スプレーを吹きかけると一発で血が止まったのだ。後は化膿止めと痛み止めを呑ませて眠っている。医師の説明によると落ち着いたら腕の組織を回復させる薬も飲ますと言う。 俺は心配でずっと傍に付いていた。さきの部屋のベッドの横に座ってさきの回復の経緯を見ている。 眠っているさきは本当に綺麗で、信じられないくらい可憐に見えた。そして、この時俺は自分の本当の心に気がついたのだ。間違いない、俺はこの少女を愛している。この世で一番大事な人だと認識したのだ。 次の日もさきは眠りから目覚め無かった。どうしたのか、それが心配だった。ずっと顔を覗きこんでいると不意に後ろから声を掛けられた。「どうした。大事無かったと聞いたが」 振り返ると坂崎同心だった。見舞いに来てくれたのだ。そして、さきの顔を覗き込むと「前も言ったかと思うが、こいつはな、貧しい貴族の家に生まれて、しかも腹違いの五女じゃ。早くから口減らしに表に出されてしまった。それをスカウトしたのがワシじゃ。 それからのこいつは一生懸命に勉強しよった。そして養成所でも一番になりよった。努力の人間なんじゃ。判ってやってくれ。そしてな、恐らくこいつはお前の事を好いてる。間違いない。脇から見てると本当に健気じゃ。でもワシは余りその気持ちを仕事に出すなと注意したんじゃ。どうしても注意が散漫になるからの」 そこまで言った時にさきが目を覚ました。「あ、光彩さんに坂崎さん。たまちゃんはどうしました?」 うつろな眼差しで尋ねるさきに俺は「タブレットを使って逃げられたよ」「そうですか。じゃあ捕まるのは時間の問題ですね」 さきがそう言ってるのが俺には意外だった。それを感じた坂崎同心が説明してくれた。「タブレットを使って時間移動をしたと言う事は、どこに移動したか組織では完全に追跡出来るんだ。それも今回からイギリスの組織の方からも追跡されておる。もう逃げ道は無いはずじゃ」 そんな仕組みになっているとは思わなかった。「でも何故、邪魔なんかしたのでしょう」 俺の質問にまずさきが「たまちゃんは養成所時代から私をライバル視していたんです。私はそんな気にはならなかったのですが、彼女は随分意識していたようです」 それを受けて坂崎さんが「それだけではない。実はなイギリスと我々の組織は言わば未来の世界からの公式機関じゃ。だが、その先の未来世界では「美術マフィア」という組織が暗躍しているらしいのじゃ」「美術マフィア!」 驚く俺とさき「ああ、未来世界では麻薬等が既に無くなっていてな。同じ効果は脳波の変換装置で行えるようになったらしい。だから麻薬などと言う体に危険なものは無くなってしまった。その代わりに資金源として注目されたのが美術品じゃ。「美術マフィア」等という組織が出来て、古今東西、新旧の美術品を裏ルートで売りさばく組織だ。その連中が今度は十九世紀~十八世紀の美術品に手を出し始めたそうなんだ。たまはその手先になっていたのだろうという事じゃ。いずれにせよ、もうすぐ判る」 そんな組織が出来ていたなんて全く知らなかった。「ま、それはそうと今日ワシが来たのはさきの見舞いと、こうすけを買い付けに連れて行く為じゃ」「え、坂崎さんが同行者ですか?」 俺は驚いて尋ねると坂崎同心は笑って「こうすけも早く完済したいじゃろう。組織も早く完済させないと無駄な経費がかかるからな。それに「寛政三美人図」と「相合傘」は当時なら簡単に手に入る。ワシでも出来るという訳じゃ。さきの怪我が完治するのは大分先だからな」 確かに全てそうなのだ。遊びでやってる訳ではない。一刻も早く借金を返す事に越した事はない。それは俺でも判っていた。「光彩さん。行って下さい。坂崎さん、光彩さんを宜しくお願い致します」 さきがそう頼み、俺は坂崎さんと江戸に行く事になった。

俺と坂崎同心は享和二年の三月二日にタイムスリップすることになった。さきと俺が一度来た翌日だ。 転送室でカウントダウンされ何時ものように江戸の長屋に転送された。周りを見て何か違う事に気がついた。すると坂崎同心が笑って「気が付いたか、ここは神田ではない、芝の長屋だ。こっちの方が早いからな」 そうなのだ、わざわざ神田から歩いて来なくても良い訳で、ここからなら目と鼻の先に浮世絵の店が並んでいる。「さあ、さっさと済ませてしまおう。お楽しみはそれからだ」 坂崎同心が何か気になる事を呟いて長屋の引き戸を開けた。それに俺も続いて表に出た。表はいい天気だが少し寒かった。今なら四月の中旬だ。寒い日も未だある。 歩きながら、坂崎同心が何時もの同心ルックでは無い事に気がついた。まあ、時代が違うから同心では無いのだが、それにしても今日は何か普段とは違う感じがした。「今日は十手は持って無いのですか?」 俺の質問に坂崎同心は僅かに笑いを浮かべて「まあな、今日は持って来てない。時代も違うし、この時代は山城殿がおるしな。それに買い付けが終わったら今回は面白い場所に連れて行ってやる。その為にも普段の格好の方が都合が良いのじゃ」 言っている意味は判ったが、その真の内容までは理解しかねた。「面白い場所」とはどこだろうか? 今時代にはそんなに娯楽の場所は無いはずだった。まさか……俺の脳裏にある場所が浮かんだ。

芝大門の前の店で程なく目的の浮世絵は買えた。呆気無いほどだった。買った浮世絵を筒に仕舞うと坂崎同心、いや今日は普通の坂崎さんが「これを長屋に置いたら、良いところへ連れて行ってやる。但し、さきには内緒だぞ」 その言葉で大凡は判った気がした。男同士で、この時代で遊びに行く所……どの時代でも商売が成り立つ場所。しかもここは芝だ。傍には有名な品川宿がある。落語の「品川心中」や「居残り佐平次」や映画「幕末太陽傳」の舞台となったあの品川宿だ。 これらの話の内容は言う間でもなく、遊郭の話だ。俺の時代には禁止され、元あった遊郭は普通の町並みになっている。品川も禁止後暫くまでは面影が残っていたそうだが平成の今は記念碑があるだけだ。「坂崎さん。その『いい場所』ってもしかして、「土蔵相模」や「お化け伊勢屋」とかある場所ですか?」 俺は落語で知った知識でいい加減な事を言ってみたのだが「馬鹿『島崎楼』が抜けているぞ。あそこはいい!」 やっぱりそうだ。坂崎さんは俺を品川遊郭に連れて行こうとしているのだ。俺はこの時ほど坂崎さんが江戸時代の人間だと強く意識した事は無かった。「何だ、どうした? 嬉しくないのか」「いえ、そう言う訳では……」「ははぁ~さきが怖いのだな。安心せい、お前が喋らなければ秘密は守れる」「いえ、それもありますが、そう言う事では……」「ならば、病気か? 安心せい、未来から性病予防の薬を貰ってある。これを事前に呑んでおけばこの時代の病気には掛からぬ。安心じゃ」 坂崎さんはあくまでもシステムや病気の事だと思っているらしい。それが全てでは無いものの、根本的な問題はそこでは無いのだ。 確かに、そんな事をすれば、さきには申し訳無いと思ってるし病気も心配だ。でも本質は違うのだ。借金の為に雇われて少女を、お金で買うと言う行為が俺の心に引っかかるのだ。俺だって借金の返済の為にこうやって浮世絵を買い付けている。それなのに同じ親の借金の為に彼女らは体を売っている。それらは殆どの場合永遠に返済不能だと聞いた事がある。だから俺はそこまで割り切って遊ぶ事は出来ないと思ったのだ。 長屋に帰って、買い付けた浮世絵を耐火性の金庫にしまって押し入れに隠す。それらの作業を眺めていた。「どうした、浮かない顔をしているな。お楽しみが待っておるのじゃ。もう少し楽しそうな顔をせい」 どうやら坂崎さんには俺の気持ちは伝わっていない。と言うより恐らく想像も出来ないのだろうと思った。「銭の問題なら任せておけ。こう見えても定町廻りの同心は見回りの最中に下手人を見つけたら後を付けなければならない。その為に十両や二十両の金銭は常に持っておるのじゃ。仲間の中には箱根まで行った者もおるぞ」 違うのだ……俺は自分の気持ちを正直に坂崎さんに述べた。「そうか、でもそれは考え過ぎだと思うぞ。あの娘らも商売でやっておるんじゃ。必死に返済しているのじゃよ。第一ワシらが買わんでも誰かが買うじゃろう。そして、買わなんだらそれこそ移り変えの時には困っていまうじゃろう。同情はするが、それは偽善じゃな。ワシはそう思う」 坂崎さんの言っている事も良く判る。理屈ではそうなのだ。それぐらいは俺にも良く判る。でもこれは俺の気持ちの問題なのだと思った。「組織には明日帰る事になっている。この時代に留まっている時間は最大三十時間と届けてある。お前が喜ぶと思ってのう……どうだ、上がらずにでも冷やかしてみたらどうだ。一杯引っ掛けてほろ酔いで見物するぐらいなら良かろう。そのうち気も変わるじゃろうて。少なくとも話のネタにはなる」 確かに、幾度となくこの時代に来て一度も遊郭を見ないのも勿体無い気はする。後学の為と言う事にして自分を納得させた。 こうして取り敢えず、日の暮れるまで酒を呑む事になった。この時代には今のような居酒屋は既にあった。尤も椅子やテーブルは無い。酒樽をひっくり返して座らせる店はあったようだ。「さあ、呑め。江戸の酒も悪くは無いぞ」 座敷の上に置かれた膳の上には色々な珍味が並んでいる。そして徳利が二本添えられていた。坂崎さんが猪口に並々と酒を入れてくれる。この時代には今の徳利は既に登場していたのでこの辺は戸惑いは無かった。 酒を口に含むと、今のとは違いやや複雑な味がした。酸味や糖度が強い感じがする。その割には酔いが回って来なかった。何か基本的に何かが違う感じがしたのだ。俺の表情で坂崎さんが気が付き説明してくれる。「違いに気がついたか? この時代の酒に使われる麹は黒麹じゃ、糖化する力が強いが酸味も出す。だから、酒屋は薄めて出していたのじゃ。だからアルコール度数もお前の時代よりも低い。白麹が出来るのは千九百二十四年だそうじゃ、もっと後の時代じゃ」 そうか、日本酒なんて昔から殆ど変わらないと思っていたけど、実際は違っていたのだと理解した。それにしても酔わないと思っていい気になって呑んでいたら急に酔いが回りだした。「それぐらいにしておけ。それ以上呑むと歩けなくなる。脚に来るからな」 坂崎さんに言われて飲むのを止めて表に出ると辺りは既に暗くなっていた。江戸の夜は暗いとさきが言っていたが本当にそうだった。目が慣れていても暗さを感じた。幸い品川の宿に居るので店の軒先の灯りがあり、歩くのには不自由はしない。東海道の両側には宿屋が並んでいるのだが、それのどれもが遊郭を兼ねている。ぼうとした灯りの下で格子の窓には艶やかな着物を来た女性が白い化粧をして並んでいる。最初、俺にはやはりこの厚い白化粧をした娘を抱く事は出来ないと思った。「やはり無理かのう……仕方が無い。だが冷やかしなんてのも、そうそう出来る訳では無いから良く見ておけよ。今のうちだけだからな」 坂崎さんの言っている事も良く理解出来た。冷やかしを体験などと言う事は俺の時代では完全に無理だからだ。 東海道はゆっくりと右曲がりになっていて、所々に大きな店がある。その店の前には趣向を凝らした提灯が並んでいて、その醸しだす灯りと雰囲気が幻想的に見えて来た。「あれが土蔵相模」だよ」 坂崎さんが教えてくれた先を見ると、以前写真で見た蔵造りの店構えが目に入った。これも昭和三十三年まで続いていたのかと思うと感慨深い。ぼおっとした灯りがまるで御伽の国に居る感覚を与えていた。物凄く雰囲気があると思った。見慣れて来ると、最初とは違い、この灯りの中で見る白い白粉化粧をした遊郭の女性達は魅力的に見えた。そうか、白い白粉化粧と言うのも、この提灯の灯りの下で映えるのだと理解した。そう言えば浮世絵も本来は蝋燭の灯りの下で見るとかなり印象が変わるらしい。 品川遊郭は大きな店は数件しかなく殆どは小店が連なっていた。落語や映画で知った知識を若干修正した。やはり来て見るものだと思った。「そこの二人連れ、どう?」「そこの背の大きなお兄さん!」 声を掛けられるとやはり悪い気はしない。それも不思議だった。ここが俺の居た世界の二百年も前の世界だとは何時の間にか忘れていた。それほど俺は江戸に馴染んでいたのだった。「どうだ、冷やかしも悪くはあるまい」 坂崎さんの言葉に俺は静かに頷いた。 こうして俺は品川の夜をそれなりに楽しんだのだった。

「ま、その気になったら何時でも来い! その時は吉原でも内藤新宿でも連れて行ってやる」 翌朝、長屋で目覚めた俺に坂崎さんはそう言って笑っていた。「じゃ、帰るか!」「はい! お願いします」 坂崎さんがタブレットを操作すると一瞬の歪みの後俺達は元のセンターの転送室に戻っていた。窓の外にはさきが待っていてくれた。その姿を見てやはり「冷やかし」だけで良かったと思った。俺はこの娘を心から愛していると強く実感した。「おかえりなさい! 上手く買えました?」「ああ、大丈夫だったよ」 そう答えるとさきの顔が変わった。「光彩さんお酒臭いです。昨夜沢山呑んだのですね。向こうのお酒は残りますからね。今度は注意して下さいね」 そんなに匂ったのだろうか? アルコール度数が低いので量は沢山呑んだかも知れなかった。「判った。今度は注意するよ」 そう答えるとさきが嬉しそうに笑った。坂崎さんと品川の遊郭を冷やかして歩いたのはさきには絶対秘密だ。こればかりは言う訳には行かない。坂崎さんを見ると素知らぬ顔で「さぁ~またトンカツ食べて帰るかな」 そんな独り言を言って食堂の方に消えて行った。なんかバレバレな気がするのだが……。

結果として、二枚の錦絵は無事に注文主のイギリスの組織に適正な価格で渡った。何でも程度の良いものを欲しがっていた美術館に収められたそうだ。 さきを襲った“たま”と言う者は十九世紀のインドで捕まったそうだ。イギリスの組織の取調べではやはり「美術マフィア」に属していたそうだ。何でも、さきに対する対抗心から「思い切った事をしたかった。それに、センターで会えば何時も男の事を言っていて頭に来ていた」そうだ。もしかして男って俺の事なのか? さきは、完治までは一ヶ月ほど掛かった。俺の時代の日本なら全治三ヶ月だそうだ。やはり未来の薬のおかげで早く治ったみたいだ。

こうして、俺の借金は完済した。俺とさきは同行者と顧客の関係では無くなった。何の縛りも無くなった代わりに俺は元の時代、以前の場所に帰らなくてはならなくなった。 その帰る日が近づいて来ていた。センターで荷物を纏める俺にさきが「結局、私が浮かれていたんです。光彩さんと一緒に居られるのが嬉しくて、のぼせて皆に自慢するように言っていたんですね。浮かれて……だから肝心な時に書類を確認しなかったんです。間違いの情報を信じてしまって駄目ですね、私……」 そういって俯いているさきに俺は「誰でも、嬉しくて浮かれる事はあるよ。でもその間違いのおかげで怪我もしたし、辛い目にも遭った。反省して二度と同じ間違いをしなければ良いと思うよ」 俺はそう言って、さきを思い切り抱きしめた。この時は二度と抱きしめる事が出来ないと思っていた。