第20話 小夜子と出発トラブル (1/2)
その日、<ruby><rb>來見田</rb><rp>(</rp><rt>きみた</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>武彦</rb><rp>(</rp><rt>たけひこ</rt><rp>)</rp></ruby>はもう死んでしまおうかな、などと思いながら歩いていた。
彼は今年で三五歳になった。そして、何も為していない普通の社会人だ。 一度は東京に出て漫画家になるという夢を追ったが、挫折。 実を言うと、東京でなにもしていない。フリーター生活とパチンコだけの毎日で、どうにも行き詰って実家に帰った。そして、ごく普通に就職してこの田舎町で暮らしている。 独身男ということ以外は立派な納税者で、悪人との付き合いも無いし見た目だって別に悪くない。ごく普通のどこにでもいる男だ。 來見田武彦は、日曜日の朝を無駄に過ごしているなと考えながら、パチンコ屋への道を歩いている。
十代から二十代は、漫画家という夢を追っていたということもあり、本をたくさん読んでいた。今から思えばそれもフリだったような気がしてくる。
今は真面目に絵も描かないし本も読まない。昔から惰性で描いている手癖で描いた絵をSNSにアップするくらいだ。趣味というほどのものでもないのに、人生を賭けているとSNSでは<ruby><rb>嘯</rb><rp>(</rp><rt>うそぶ</rt><rp>)</rp></ruby>いている。
最初から何も賭けていない。
今の生活にも満足している。 仕事は順調で、会社の業績だって悪くないから、倒産の気配も無い。 たまの休みはパチンコで潰すくらいの蓄えはある。 よし、明日は開店から行くぞ。なんて息巻いていたのに、起きたのは10時30分。もう開店前の行列に並ぶこともできない。 なんか適当な台は空いてんだろ、という気持ちでぶらぶらと駅前のパチンコ屋に向かっている。 こういう時は、パチンコ屋の近くにあるお稲荷さんに寄り道することにしている。下らないジンクス。
お稲荷さんに、勝てますようにとお祈りすることにしていた。
ポケットには小銭が入っているし、今日もお祈りしてからパチンコという戦場に向かうのである。 駅前の裏路地にある寂れたお稲荷さん。ポケットの中の三十二円を賽銭箱に投げ入れて、<ruby><rb>柏手</rb><rp>(</rp><rt>かしわで</rt><rp>)</rp></ruby>。 お祈りしようとしたら、背後からクラクションが鳴り響いた。
「うわっ」
驚いて声を上げたら、バイクが通り過ぎた後に、武彦の真横にタクシーが急停車していた。
「そこのお前、入らぬと死ぬぞ」
タクシーのドアが開くと同時に、助手席に座る和装のコスプレ少女が言う。
「え、な、なに」
「若松、引っ張り込め」
「へい、ようがす」
後部座席にいた塩顔の少年に、武彦は首元を掴まれてぎゅうぎゅうの車内へ引っ張り込まれる。
「サヨちゃん、ヤバいってなんか追ってきてるって」
次の声は、タクシーの前方で停車しているバイクから聞こえた。ギャル風の女子高生が400ccにまたがっている。
「よし、行くぞ。ギャル谷や、先導を任せる」
「いいけどさ、バイト代ホントにはずんでねっ」
「わらわに任せておれ」
バイクは爆音を響かせて加速していく。後部座席のドアが閉められた後、タクシーも急発進した。
「タクシードライバーよ、ナビの言うことは無視して前のバイクを追うのじゃ」
「前払いで貰ってるから言うこと聞くけど、修理代も払ってや」
女性タクシードライバーが関西訛りで言う。 武彦にとっては訳の分からないことだ。そして、なぜか拉致されている。全く状況がつかめない。
「ちょっと、キミらはなんなんだ。放してくれ」
「放したら死ぬというのに、何を言うとるんじゃ」
「え、死ぬってなんだよ」
武彦の隣、ドアしかないはずの隙間から獣臭が突如として発生した。塩顔の少年を挟んで反対のドアにいる中年女性が「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
「えっ」
『願いィ、聞き届けたりィ』
真横にいたのは、釣り上がった目をした狐の顔であった。お稲荷さんにある石の狐さんとそっくりの顔をした、人間ほどの大きさの狐の頭である。
「ヒッ、な、なんだ」
助手席に座る少女が後ろをちらりと見てから、口を開く。
「そこのお稲荷さんじゃ。どんな願掛けをしたか知らんが、そのままじゃと祟りで死ぬぞ」
「な、なにってパチンコに勝ちたいって」
「それはお前の願いではあるまい。心の奥に秘めたるお前の【欲望】をみせよ」
武彦は少女の視線に射られた。 文字通り、胸の中心を刺し貫かれたのだ。ただの視線で射られただけだというのに、身体の自由が奪われた。
「お、おれは、有名になって、尊敬されたい……。好きな漫画で、成功して、先生って呼ばれたい」
武彦自身ですら言語化できない心の奥底にある自らの真実が、口を突いて出る。
「もっと根源にある【欲望】を見せい」
武彦の原体験。 小学生のころ、友達のお兄ちゃんのものだという大友克洋先生の【AKIRA】を読んだ。あれがあまりにも凄すぎて、親にねだって買ってもらった。 夢中で読みふけった。意味の分からない部分もあったけど、とにかく凄いものだと感動して、これをやると、幼いながらに決めていた。
「おれもアキラみたいなのを描きたい」
その願いは、長ずるにつれて、荒唐無稽だと自分自身が否定するようになった。
『<ruby><rb>大請願</rb><rp>(</rp><rt>だいせいがん</rt><rp>)</rp></ruby>、ここに聞き届けたりや。請願成就、請願成就』
狐はそう言って、かき消えた。
「えっ、願い、叶うのか」
和装の少女が「ほほほほほ」と<ruby><rb>嗤</rb><rp>(</rp><rt>わら</rt><rp>)</rp></ruby>った。
「何を言うておるか。お前があの稲荷に約束しただけじゃ。しかし大きく出たものよ、かの天才の如き作品を創り出すなどと」
「願いが叶うって」
少女は美貌を歪めて嗤う。
「ほほほほ、請願というのはの、神に約束をするということ。お前、それを描かねば稲荷との約束を破ったものとして食い殺されるのう。ま、あのままではパチンコに負けただけで食われておったんじゃ。わらわに感謝せいよ」
「な、なんで、お祈りしただけじゃないか」
「神とはそういうもの。あのお稲荷さんは、まだ話が通じる部類じゃ。今日明日にせよというものでもないし、見たところ寿命も三十年はゆうにある。歩みを止めねば食われることもあるまいて」
そんな馬鹿な。
「こやつはもうよい。そこで降ろしてやっておくれ」
タクシーが停車して、路肩に武彦は放り出された。
「死にたくなくば、頑張るんじゃぞ」
と、放り出される前に少女が言っていた。 路肩で、武彦は呆然と去りゆくタクシーを見つめて立ち尽くす。
「なんだよ、それ」
乾いた笑いを漏らして、武彦は辺りを見回した。 駅前から少し離れた国道沿いだ。武彦も知っている地元の道である。この辺りには飲食店や、ホームセンター、家電量販店もあって地元民はよく知る場所だ。
「訳が分かんねえ」
こういう時、あえて何も考えず日常に戻ろうとするのが大人というもの。 この近所にもパチンコ屋があったな、と武彦が考えた時、背後から視線を感じた。 振り向くと、少し離れたところに女物の着物を羽織った狐がいて、こちらをじっと見つめていた。 獣臭が風に乗って、武彦の鼻をくすぐる。 狐の隣を自転車の少年が通り過ぎる。そして、通行人であろう親子連れも通り過ぎていく。誰も、あんな異様なものに気づいていない。
『コーン』
狐が大きく<ruby><rb>啼</rb><rp>(</rp><rt>な</rt><rp>)</rp></ruby>いて、すうっと消えた。 その声は周りにも聞こえたのか、皆が辺りを見回して怪訝な顔をしていた。だが、それだけだ。
「あ、あああ、描かないと。描かないと」
消え去る前、狐と目があった。 血走った瞳。動物でも、人でもない瞳。 理屈ではなく分かった。約束を破れば近づいてくる。一歩、また一歩。アレが背後に来た時には、食い殺される。 神への誓願とはそういうもの。人間同士でも、千本もの針を飲ませる。 武彦は大型家電量販店に入って、ペンタブやペイントソフト、必要な機材を買い込んで家路を急いだ。 漫画家にならないと、アレが来る。
このようことになったのには、理由がある。少し時を戻そう。
さて、本来なら小夜子と道反誠士とのお見合いであった日曜日だが、早朝から小夜子と若松は移動の準備に追われていた。
聖蓮尼からの連絡以降、突然水道管が止まるわ、石窯が割れるわ、炊飯器が壊れるわという不運が重なり、さらには敷地内で天然記念物のフクロ毒リスが営巣したとかで学者先生が調査にくるわで、バタバタしたまま準備すらできない毎日を送っていた。