第115話 修羅場と寿司とカリフォルニア (1/2)

小夜子はイエス様を認識できなかった。 この計画で何かが来るというのは分かる。それだけの天才的な、いやさ天才にしか成し得ぬ術式であるからには何かを呼べるのは間違いない。しかし、イエス様が本当に来るとは、小夜子ですら信じられなかったのだ。

どうせ、炎の剣かケルビム辺りがやって来て足木夫人を塩の柱にでも変えてしまうのが関の山。

足木夫人から連絡があり、期待もせずに合流してみればその予想は裏切られ、人間にしか見えないイエス様がいる。 正真正銘の神の息子。光あれと宣言されたヤハウエ様が遣わした真なる人。

「人間の姿で来てくれるなんて、好都合だわ」

足木夫人にとって、ベリアルの残した罠がイエス様によって潰えるのは想定内であった。龍子と商店街で待ち合わせたのも、きっと神の子が来てくれると信じていたからだ。 なんの確証も無く、足木夫人は信じていた。 ベリアルごとき悪魔に運命をいじくられた少女を救うなど、イエス様にとって造作ないこと。

「うむ……足木夫人よ。わらわは抑えられんようになってきた」

間宮小夜子は小走りにイエス様へと歩を進めながら、口元を抑えていた。 唇の端がめくれあがり耳まで裂けようとしている。常ならば異常を制御するはずの瞳には、煮え滾る喜悦。異界の超越生命である肉体が、<ruby><rb>あれ</rb><rp>(</rp><rt>神の子</rt><rp>)</rp></ruby>を喰らえと本能で命じていた。

「もう、はしたない顔をして! お子様なんだから」

脳が、小夜子の脳が異次元の本能からの命令で変性する。 神の子との<ruby><rb>邂逅</rb><rp>(</rp><rt>かいこう</rt><rp>)</rp></ruby>は、邪神によって産み直された小夜子が肉体を造り変えねばならぬほどの危機であった。

「てぃぃきぃぃりぃりりりぃぃぃ」

小夜子の肉体は、故郷の声と言葉を用いて<ruby><rb>虚空</rb><rp>(</rp><rt>あっち</rt><rp>)</rp></ruby>への助力を呼びかける。

「<ruby><rb>白</rb><rp>(</rp><rt>アルビノ</rt><rp>)</rp></ruby>ペンギン語なんて<ruby><rb>赤ちゃん</rb><rp>(</rp><rt>ショゴス</rt><rp>)</rp></ruby>言葉はよしなさい! 小夜子さん、お行儀が悪いわよ。こんなことくらいで子供みたいになっちゃダメ」

足木夫人は小夜子の認識の外から、子供を叱る母のように言う。そして、小夜子の背後から忍び寄った。超越生命がただの人間である足木夫人を認識できない。

足木夫人は最強最悪の現代式魔法使い。

足木夫人がその名を広く知られていないのは、敵対した相手を組織ごとあまりに早く殲滅せしめ記録にすら残らなかったせいである。 一つの組織を滅ぼすのに要した時間の平均は、1470秒。 そんな足木夫人が、間宮小夜子の後頭部に指を指し込んだ。小夜子の全身の支配権を得るのに1.2秒。脳構造を把握するのに4秒を要し、再構築設計に6秒をかける。

足木夫人は天才である。だからこそ、人間の領域に止まる程度に退化していた小夜子の脳を、正しい形に治療してしまった。 いつの間にか、優しい世界へ逃げ込もうとしていた小夜子の脳をあるべき姿に戻したのだ。 変化と喪失を恐れ、休眠を欲していた小夜子はもういない。

「眠く、なくなった……」

小夜子は呆然とつぶやいて、足木夫人を見やった。

「もう、女子高生なんだから子供みたいなのはダメよ。しゃんとしなさい」

頭の中にあった霧が消えている。だから、現状を把握できた。未来と現在は限りなく近い位置にあって、停滞による維持が可能な基底現実の折り返し地点にいる。しかし、ここで立ち止まるのは永劫の停滞にすぎず、問題の先送りだ。 誰も失わない代わりに、小夜子が停滞して休眠する。眠れば、その時に終わりの日まで目覚めない。

「まさか、わらわが操作されておるとは……油断したわ。足木夫人よ、助かったようじゃ。礼を言わねばならんな」

「小夜子さんの感謝は受け取るから、今からは余計な口出しをしないでね」 足木夫人への返礼だ。ここは従うしかあるまい。 だから、小夜子はイエス様の目前で立ち止まり、何もしない。ただ、子供じみた悪さのあるワイルドな風貌を見るだけだ。不思議なことだ。ちっとも似ていないのに、どうしてかトミーを思い出す。

「バケモノのお嬢ちゃん……親父にも従わない魂か。ロックだな、東の果てにいるってのもいいな。悪くねえぜ」

「イエス様がわらわをそのように言われるか……」

悪魔と呼ばれても仕方ないと、そう思っていた。だというのに、イエス様は面白そうにしているだけだ。 小夜子は何か言いたかったが押し黙った。ちらりと、足木夫人を見やる。彼女は何かを考えているようだ。 そんな魔人たちを、地蔵菩薩は龍子を抱き上げたまま見ている。

イエス様は街角で出会ったバケモノと神を見回して、大げさに肩をすくめた後で苦笑いを浮かべた。

「くそったれが、女ばっかりで居心地が悪い。それに、通りの真ん中でやることじゃねえな。まだ酒は飲めるから、場所を変えようぜ」

イエス様は言うと、親指で通りのすぐそこにある駅前のお寿司屋さんである【鶴屋】を指さした。店主が看板の電気提灯に灯りを入れたところだ。 どうしたものかと口が重くなったところを、地蔵菩薩様がとりなした。

「立ち止まってたら迷惑やねえ。ほら皆さん、お寿司食べにいきますえ」

それもそうかという雰囲気になり、寿司でもつまんで話し合おう。そういうことになった。

一方そのころ、若松は千草とユメちゃんを連れて商店街を回っていた。 偶然を装って現れる女たちを「親戚の子の面倒を見ています」でかわし続ける若松に、ユメちゃんはドン引きであった。 本来ならば普通の人間には姿を見ることのできない異界幽霊の千草も、今日だけは普通の人間として振る舞うことができる。 足木夫人の創った魔法円は、人ならざる者を人に近づけて顕現させる結界であった。 千草やユメちゃんだけでなく、近場の妖怪なども人に紛れてクリスマスを楽しんでいるのだ。 そんなことになっているのだが、誰も妖怪の存在などに気づかない。特に害があることをする訳でもないのだし当然のことだ。 彼らは神社の賽銭箱からくすねた金で、普段は食べられないフライドチキンや甘酒に舌鼓を打っているか、美味そうに酒を舐めている。それだけしかやっていないし、魔法円の効果で人々はその異常に鈍くなっている。

「若松兄さん、クリスマスっていいものね。外国のお祭りは賑やかで楽しいわ」

千草は若松の腕を抱いて、勝ち誇っていた。ところどころから突き刺さる負け犬の視線、ただの人間などに渡すまいぞという威嚇でもあった。 時として、そのようなものを意に介さない人間がいる。

「若松くん、ここにいるって聞いたから来たよ」