第58話 食の安全 (1/2)

ヴィスタとヴィル、そしてアレクが旅立ってから約二ヶ月。 国へと帰ったヴィスタからは定期的に手紙が送られてくるものの、アレクからの連絡は一切なし。 一体彼が何処で何をしているのかもわからず、また彼がいう国という地も知らないまま時が流れた。

「ちょっとノヴィア、リネア様は大丈夫なの? さっき食後のデザートにドレッシングを掛けていたけれど」「それぐらいならまだいいよ、昨日なんて服を着たままバスタブに入ろうとしていたんだよ。私たち慌てて止めに入ったんだからね」

現在建築が進んでいるお屋敷の仮住まいとして、日々を暮らすこの小さなお屋敷。なんだか使用人たちがやたらと私の事を心配してくれているようだが、私自身に自覚はなく、今だって笑顔で出かける前の挨拶を交わしてきた。

そらぁ確かに疲れていないかと問われれば、間違いなく疲れていると告げるだろうが、それは主力の三人が抜けてしまった結果なので、ある意味仕方がないことだろう。 それでもこの2ヶ月でスタッフ達も成長しているし、中には頼りになる人材も出てきているので、もう暫くすれば私の仕事量は確実に減っていく筈。 とにかく今は目の前の仕事をこなし、スタッフ達の育成と成長を見守りながら耐え忍ぶしかない。 そのうちアレクがひょっこりと戻って来てくれるはずなので、もう暫くの辛抱だ。

ガタガタガタ「リネア様、その……本当に大丈夫なんですか? なんでしたら今日一日ぐらいお休みになられた方が」 商会へと向かう馬車の中、向かいに座るノヴィアが心配そうに尋ねてくる。

「何度も言うけど大丈夫よ。体調の方はお世辞にもいいとは言い切れないけれど、倒れるような程ではないわ」「ですが……」 ここで心配させまいと嘘をつく事もできるのだが、長年私に付き添ってくれているノヴィアを誤魔化せるわけもなく、素直に今感じている状態をそのまま告げる。

「昨夜もあまりお休みになられていないようですし、領主としてのお仕事と商会のお仕事、やはりリネア様お一人でお二つを同時にされているのは、負担が大きすぎます」「心配しすぎよ。領主の方は以前から勤めてくれている人たちがいるし、商会の方の忙しさは一時の間だけ。それに領主と商会を同時に管理するなんて、別段珍しい事でもないでしょ?」 別に領主が商会を運営している事は別段珍しい事ではない。 例えばその地で採れた特産物を使い、商会の取引で資金を稼いでいる領主は意外と多い。現に私の実家でもあるアージェント家も、領地で採れた鉱物を元に商会を運営していた訳で、寧ろ商売に手を出していない領主の方が珍しいほどだ。

「……わかりました。ですが私がダメと判断した時は何をおっしゃっても休んでいただきます。お約束いただけますか?」「ふぅ、わかった、わかりました。その時はノヴィアに従うわ」 ここで意地を張ったところでノヴィアは決して見逃してはくれないだろう。 私だって疲れた時は休みたいし、今ここで倒れたらしたら取り返しのつかないことになることぐらい、十分に理解している。 私は両手を挙げてノヴィアに従う意思を伝える。

私は倒れるわけにはいかない。 商会の方もまだ私抜きでは動かせないし、領主の方も村人に動揺させるキッカケを与えてしまう。 もしここで私が倒れでもしてみれば、やはり小娘に任せておくのは危険だと、よからぬ噂が広まることだろう。 せっかくここまで纏りをみせ、近隣の村や街との良好な関係を築き始めているのに、たった一つのミスで全てを失ってしまう可能性もゼロではないのだ。

私はあたらめて自分にそう言い聞かせるよう、胸元に仕舞い込んだアレクから預かっているペンダントにそっと触れる。 彼がなぜ帰ってこないのか、彼がなぜ今だにこのペンダントを私に預けてくれているのかはわからないが、それでも何時も勇気と元気をくれている事には違いない。 今一度元気をチャージするよう、私はペンダントの暖かさを肌に感じる。 その姿を痛々しく見つめるノヴィアの視線に気づきもせずに……。

「クランベット、例の<ruby><rb>料理本</rb><rp>(</rp><rt>教本</rt><rp>)</rp></ruby>の方はどうなってるかしら」「間もなく原稿の方が上がってくるかと、届きましたら私の方で一度確認してからお持ちします」 商会本部内にある一室。 ここには今、私が選出したチーフ達が集まり定例の会議を行っている。 その選出した基準だが、仕事の覚えが早く臨機応変に対応できる能力。人の上に立つ事ができ、コミュニケーション能力が高い人物。そして今後その能力が成長していくだろうと感じた人たちを選ばせてもらった。 おかげで年齢層はバラバラ、出身もこのアクアで生まれ育った者もいれば、先の内乱でアージェント領から逃れて来た人もいる。 クランベットに至っては、元アージェント家の料理長なんだから、そのバラバラ具合は分かって貰えるだろう。

「そうして貰えると助かるわ。今回の<ruby><rb>料理本</rb><rp>(</rp><rt>教本</rt><rp>)</rp></ruby>はあくまでも料理教室で扱う教科書、言うなれば卒業の証のようなものだからね。内容のチェックは念入りにお願いするわ」 長年私のワガママに付き合わせたクランベットなら、ある程度任せておいても問題はないだろう。

「ココア、先日のアルマード商会の取引だけれど」「問題ありません。先方がまた無茶な納期を言って来ましたが、私の方で処理しておきました。後で報告書をまとめてお持ちしますね」「ありがとう、相変わらずあの商会は要注意ね。ブレンダ、例の新商品はどんな感じかしら?」「発酵の方は順調に進んでいます。ただこれから気温が高い季節になるので、その辺り少し不安ですね」「そうね、その辺りは風を通すかして調整するしかないわね」 順番に議題に上がっている内容を確認しながら話し合う。 ココアはヴィスタが居た時から働いてくれているスタッフで、今は受付チームのリーダーをやってもらっている。 ブレンダはアージェント領からの難民で、以前は多くの食材を扱っていたという経験を持つ年長のスタッフ。彼女には今私が望んでも再現できなかったある調味料の製造をお願いしている。 その調味料とはズバリ日本醤油。 海沿いの村という事で魚が凄く美味しいのだが、残念な事にこの世界には醤油という調味料が存在しない。ならばいつものように再現すればいいのだが、醤油に関してはそういうわけにはいかないのだ。