21世紀に空を飛ぶ夢をかなえた、鉄腕アトム世代の企業創設者の物語

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著者: MIYA尾
最新: 25
時間: 9 月 前
まとめ:

これを書いたのは一九九八年頃です。 フライング社という会社の四十周年記念誌で、二〇四七年の時点より企業の歴史、業績、日本の社会情勢を振り返るような流れで、物語を書きました。だから、この小説に表示されている年代と事象は空想であり、 二〇二一年を迎えた今日の現実とは、かけ離れています。(しかし、一部、予見しているような箇所もありました!) 二度、コンテストに応募しました。一度目は日本ファンタジーノベル大賞、二度目は「応募したけどダメだった作品募集」的な投稿企画に。この二度目の時に、月間優秀賞を受賞し、温度計だったかの賞品をいただきました。 あらすじを書きました。ちょっと長いので、こちらは読まずに、いきなり本文を読み始めてもOK。 また、プロローグを設けていますが、これは小説としてのプロローグです。「フライング社四十年史」という会社の記念誌として楽しみたい方は、第一章「鉄腕アトムと空の女神」よりお読みいただければ、すぐに物語の中へ入っていけます。【あらすじ】 二十一世紀、人は空を飛べるようになった。人類の夢をかなえ、日常生活に新しい楽しみをもたらしたのはフライング社の創設者松本幸介だった。  二〇〇一年一月一日、千歳から羽田へ向かう飛行機の中に、絶望的な面持でシートにもたれている松本幸介の姿があった。二十一世紀は何でも望みを叶えてくれる魔法のような別世界のはずだった。しかし、実際に辿り着いてみると、そこにはなにもなかった。鉄腕アトムのような少年ロボットはいないし、空を飛ぶ自動車もない。空を飛びたいと思っても、日常生活でそれを可能にするのは、仰々しい翼を持った飛行機しかなかった。 ありふれた正月便のはずだったが、飛行機から降りた直後から松本幸介は奇妙な発言を繰り返す。「飛行機はハイジャックされ、彼らは月へいけと言った」と。「空の女神によって、空のビジネスへ導かれた」と。その発言はマスコミに非難された。 当時の松本幸介は全国に七十三店舗を抱えるビッグライフ社の社長であり、企業のトップの発言にしては余りにも妄想的だった。しかし、松本幸介の意志は固かった。松本はビッグライフ社との関係を断ち、総べての財産を注いで、人が空を飛ぶということの実現に挑んでいく。 二〇〇三年、松本幸介はプライベートな財団をつくり、世界中からアイデアを募った。しかし、どれも実現までには時間がかかるものだった。松本幸介は苦悩する。そのさなか、二〇〇四年十月に飛び袋(トビー)の発明者木村春彦と運命的な出会いをする。木村は当時自転車屋の主人だった。木村も空の女神を子供時代に見たといい、松本幸介は二人の出会いが空の女神によって導かれたものであることを知る。 飛び袋の仕組みはFLY-G(マジックガス)だ。空の女神が子供時代の木村に授けたスカイエネルギーとヘリウムガスを融合させたもので、不思議な上昇パワーを秘めていた。    松本幸介は木村の協力を得て二〇〇七年フライング社を札幌に設立する。二〇一〇年、石狩に本社を移転し、研究室と工場をつくる。 二〇一二年、八キログラムタイプのトビーを売り出す。筒状の形態で、これを胴体、手足につけると飛ぶことができる。最初の一か月はさっぱり売れなかったが、優れた育児用品として若い母親たちに認められて以降、トビーは大ヒット商品になった。 それから数年後、トビーは三十五キログラム近くの人間を飛ばせるまでになっていた。しかし、形態の壁にぶつかっていた。 木村春彦の長男、健一は十代のころから様々なものを発明し、松本幸介に披露していた。その一つにスカイスーツがあった。それはトビーの形態の悩みを解決し、真に「飛ぶ」という時代の到来を実現するものだった。これをベースにしたスカイスーツ50が二〇二六年に発売されている。 二〇一〇年代、若く新しい起業家たちが台頭してきた。松本幸介はネオビジネスエイジの新しさには勝てないことを悟る。二〇二四年四月、社長の座を当時三十三歳の菊地ひな子に譲り、自分は相談役となる。この菊地と国会議員の小泉康夫とともに松本幸介スキャンダルに巻き込まれる。その陰に公安を担当する役人の横やりと、企業と自社製品の未来を守ろうとする松本幸介の姿があった。菊地は小泉と結婚し、二〇二八年木村健一を新しい社長に指名する。 二〇三五年、東京にこうもり男が出現し、女性たちを空から落とすというショッキングな事件が起きた。松本幸介はスカイスーツの改造品が犯罪に使われたことと、改造品が自社製品よりもパワーがあことにショックを受ける。松本幸介は例え改造品であっても、その製法が他社に奪われように手を尽くす。それが松本幸介の最後の仕事だった。 松本幸介は二〇三八年九月に八十四年の生涯を終える。 松本幸介の死後発売されたスカイスーツ58・65は、通勤、親子のふれあいなど、日常生活の様々なシーンに変化をもたらし始めた。二〇四七年、フライング社では創立四十周年を迎え、健一社長はCSS計画を発表する。それは総べての服にFLY-Gを入れて、あらゆる人が、飛びたい時にいつでも飛べるようにするというものだった。 …続きを読む

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