先生! 締切明日です!!(前編) (1/2)

──七月某日、雨──

窓を叩く雨音で目を覚ます。机に突っ伏した体制で寝てしまっていたらしい。大きく伸び、体の節々が音をたてる。なんとか原稿は仕上がった。つけっぱなしだったパソコンを切り、水を飲む。眼鏡を外し、あくびをひとつ。 体が重だるい。冷房の真下で寝落ちしたからだろうか。寝室に移動してひと眠りしよう。そう思って立ち上がり、仕事部屋の戸を開いた矢先──

軽快なチャイム。動きが止まった。続けてチャイム。無視して寝ようと部屋を出る。そうだ、今日は休日だ!!

「おはようございます<ruby><rb>雨宮</rb><rp>(</rp><rt>あまみや</rt><rp>)</rp></ruby>センセ────ッ!!」

玄関の戸が開く音。猛ダッシュで駆け寄り扉を閉めようとするが、奴の方が早かった。隙間に足をねじ込まれ開かれる。

「釣れないじゃありませんか雨宮先生。貴方の運命の人が来たんですよ?」「お前はただの不審者だ。いい加減合鍵を返して出ていけ」

脱色したあとの残る髪をヘアバンドで上げ、ラフな格好をした新米編集──<ruby><rb>飛鳥</rb><rp>(</rp><rt>あすか</rt><rp>)</rp></ruby>は部屋に入ってきた。勢い余って俺に触れる直前、ぴたっと手が止まり引っ込む。クソ、いっそ触っていればよかったのに。

「まぁた徹夜明けですか? 寝る前に朝ご飯食べてってください」「生憎昨晩はきちんと寝た。机に突っ伏して朝までぐっすりだ」「それは気絶って言うんですよ! ちゃんとベッドで寝てください!」

口うるさい奴め。結局促されリビングに。

「冷房つけます?」「いや、そこまで暑くないからいい」「そうですか? じゃあ窓開けときますね」

飛鳥はパーカーの袖をまくり台所に立つ。腕を伝う汗、そんなに暑いだろうか。今朝はまだ涼しい方だと思うが。

「ほぼ毎日毎日人の家に来やがって……」「平日はちゃんと出社して自分の仕事してタイミング見計らって出てるので安心してくださいよ。今日は祝日だから一日いられますよ〜。まぁ! 本音を言えば四六時中先生の元にいたいんですがね!!」「……死ね」

こいつとの「勝負」が始まってから早くもひと月。 飛鳥を好きになれば俺の負け。飛鳥が俺に触れれば俺の勝ち。期限は一年。今の所飛鳥はけして俺に触らないし、俺はコイツのことを嫌っている。あった覚えもないのにいきなり好きだなんだと連呼してくるノンケを好きになれるかってんだ。……ん?

「……どうしました?」「いや、なんでも」

そういえば、コイツと出会って早三ヶ月経つが、なんでコイツは俺に惚れてるんだ? 疑問に思ったことはあれど、質問したことはなかった。料理をするその背中を見る。 学生時代はさぞかし遊んでいたんだろう。髪の脱色跡はその名残か。塞がりかけたピアス穴、そこそこ鍛えた体。

「……顔自体は悪くねえんだからなぁ」「え!? 今俺の顔のこと褒めました!?」

物凄い勢いで食いついてきた。クソ、聞こえてやがったか。

「つまりつまり、それは俺に好意を持ってくれたと……!?」「アホか! 勘違いもはなはだしい!! ただ、なんでお前みたいな奴がこんなアラサー男を追っかけ回してんのかが気になるだけだ」

飛鳥は卵焼きを皿にのせ、驚いた顔をした。

「好きだから、ですが」「照れもせずそういうことを言うな気色悪い。そうじゃなくて、何があったらそんなふうになるのかってことだ」

呆れてため息しか出ない。こういう真っ直ぐさが、俺には毒だ。眩しすぎて目に悪い。 飛鳥は首をひねりつつ味噌汁を完成させ、器についで卓についた。白米と卵焼き、焼いた干物に味噌汁。 手を合わせ口に運ぶ。味は美味いのが腹立たしい。そんな俺の様子を見、飛鳥はうーんと唸っていた。

「……本当に先生は覚えてないんですね? 俺と出会った日のこと」「全く記憶にない。一年前ってなら……今の連載を始める前、か」

読み切りをいくつか描き、二冊目の短編集が出た頃。

「その頃は原稿が行き詰まるたびに街をぶらついて男漁りしてたからな」「なんであんなところにいたんだろうと思ってたら! 男漁りってなんですか先生!!」

すごい勢いで食いついてきた。

「知っての通り徹夜が続くと俺は自力じゃ寝れん。ストレス発散と性欲発散のために、筋肉ムチムチイケメンに意識ぶっ飛ぶくらい抱かれて──」「わー!! わーッ!! わぁぁぁぁッ!!」

デカイ声で騒ぐ。うるせえな! 静かに飯も食えねえじゃねえか。

「不純ですよ先生! そんな一晩、体だけの相手だなんて……」「それで充分だ」

俺みたいな奴は、恋なんてできやしないのだから。無言で味噌汁をすする。飛鳥はひとしきり唸ったあと、低い声でぼそぼそ言った。

「……先生と会ったときのことを話すと、自ずと自分の黒歴史を掘ることになって嫌なんですよねぇ」「……お前の黒歴史?」

興味ある。このキラキラしたヤリチン陽キャ野郎がか? ……まあ偏見だが。

「ありますよそりゃ。だって俺、大学出てから一年フリーターしてましたもん」「ほう」

一年近くぶらついて、今の編集職についたのか。瑠璃川の野郎は顔が利くからな。

「……大学四年生までは、順調でしたよ。でもまあ、就活に失敗しちゃいましてね」

ヘアバンドを外し頭をかいた。顔は笑っているが、当時は大変だったのだろう。

「何もかも中途半端だったんで。大学に進んでも、なんにもしてこなかった。なんとかなるって思ってたんですね。そしたら、周りはどんどん決まっていくのに、俺はなんにも。焦って失敗して、その繰り返し」

その焦りは、俺は経験したことがない。俺は高校を卒業して短大へ進んだ。在学中から漫画を描き投稿をし、短編集を出してそれが当たった。卒業してもどうにかなると思っていたから。

「んで卒業。見事にフリーターです。バイトで食い繋いで、間で面接受けて。落ち続けて。次第に何に対しても投げ槍になっちゃって。……妹達がいるから家にも居づらい、それで、夜の街でバイトを始めたんです」

何もかも順調そうに見える男でも、そう上手くは行かないらしい。

「でもそこでも、クビになっちゃいまして。それで完全にひねて、雨の中飛び出したんですよ。ありがちですよね。そしてそこで──」

飛鳥は、俺を見つめた。

「雨宮先生に、出会った。持っていたっていう予備の傘を、くれたんです。もちろん俺は、貴方が漫画家なんて知らなくて、それを突っぱねようとしました」