〈ひょうきん者〉と〈竜の舌〉 1 (1/1)

アルル・ケスという名を口にした時、もしも相手がロンプの住人なら、こう尋ね返されない者はいないだろう。「それは〈竜の舌〉のうたに詠われる炎の色の髪をした魔術士のことかい? それとも、しょっちゅう戯けてる、〈ひょうきん者〉の赤毛の青年のことを指しているのかい?」 赤子の頃に竜の口に匿われ難を逃れた方だと言えば、更にこう返ってくるはずである。「それじゃ区別はつかないな。どっちも同じなんだよ、赤んぼのころに竜の口に匿われて、襲ってきた賊から逃げ延びたっていうのはさ」 つまるところ、この名前は有名であり、紛らわしい。アルル・ケスという青年は――確かに自分はロンプの町の人々に親しまれる〈ひょうきん者〉で、同時に吟遊詩人たちが詠いあげる偉大なる魔術士、〈竜の舌〉のアルルという英雄の素材となった若者ではあるのだが。(でも僕は魔術士なんていう御大層なものじゃない。水や炎を操れたり、怪物を退治して回るような力は持っていない。僕は赤ん坊の頃にほんのちょっと珍しい経験をしただけの、人参色の髪と緑がかった灰色の目を持つ、普通の人間だもの。『〈竜の舌〉の魔術士』は吟遊詩人たちが面白がって作り上げたお話に過ぎないって、皆が知ってるよ) そんなことを考えながら、〈ひょうきん者〉のアルルが両腕に籠と革袋をぶら下げたまま、先週目にした吟遊詩人や道化師の真似をして皆と騒いでいると、丁度背にしていた家の戸口から声がかかった。「アルル、まだそこに居るの?」 水仕事の途中ででもあったのだろうか。濡れた手を端切れ布で拭いながら中から出てきたのは、銀色の滝のような髪を高く結い上げた若い娘。彼より一つ年上の従姉ターグだった。ターグはいつものようにほっそりとした腰に手を当て、「アルルったら。私と叔母さまに頼まれていたお使いはどうしたの? 父さんがお昼抜きになってしまうではないの」 アルルの腕にぶら下がった籠を睨んで渋い顔をしてみせた。 修道院から聞こえてくる鐘の音は、正午を告げてしばらく前に鳴り終えていた。仕事場で忙しく立ち働く職人たちも、今頃は皆休憩に入ってのんびりしていることだろう。アルルは頼まれ事をすっかり忘れていたことに首を竦めると、「ごめんごめん。すぐ行ってくるよ」と言って一緒に戯けていた他の青年たちへ手を振り、ばたばたと駆け出した。 二日前の嵐は周辺の農家の馬小屋を吹き飛ばし、いくつもの家の屋根を傷めたが、幸運にもここロンプの町の中では怪我人が出るような事にまではならなかった。晴れた空の下、舗装されていない道を人々はいつも通りに歩き回り、放し飼いにされている豚が、時折その足元で餌はどこだと鼻を鳴らしている。活気や規模という点では市の立つクレセンや領主の住むネヴィンのような町にはもちろんかなうはずもないが、ロンプは穏やかで住みやすい田舎町である。 大人の足ならせいぜい四分の一日もあれば周囲をぐるりと回ってしまえるほどの小さな町だ。目指す場所にはすぐに辿り着いた。 往来の邪魔にならないように道の端へ寄って立つと、走ってくるうちにじんわりと額に滲んだ汗を服の袖でぬぐう。それから、目の前の家の屋根を見上げて、アルルは声を張り上げた。「ヘス伯父さーん、頼まれてたお昼、持って来ましたよー」 下げてきた籠と飲み物の入った革袋を片手で頭より高く掲げて空いた方の手を振っていると、屋根の上で働いていた中年の職人が振り返って返事をし、するすると梯子を下りてくる。「いやいや、待ってたぞ」 大股に道を横切って歩いてくる職人の日焼けした顔の中で、この町の人々に多い薄い空色の瞳が陽気に輝いている。明るい茶色の髪。がっしりと力のありそうな、いかにも屋外で働く男らしい体つきは、いつ見てもうらやましく感じられる。「毎度悪いな。お前さんがいてくれて助かってるよ」「届け物くらいお安い御用ですって。はい、これ。昼食です」 言いながらアルルは、両掌をこすり合わせて汚れを払ったヘスに籠と革袋を手渡した。「中身はいつもの乾酪チーズですけど、飲み物の袋には新しい麦酒エールが入っていますよ」「おう、そいつはありがたい!」 ヘスの口元が綻ぶ。「陽気のおかげかどうにも喉が渇いてな、朝持ってきたのは全部飲んじまったところだったんだ」「母さんもそうだろうって。持って行けって言われました」「ウレリには全部お見通しってわけか!」 かなわんな、と笑うヘスに合わせて、アルルも笑い声を立てる。「どんな感じです?」 喉を鳴らして麦酒を飲むヘスへ、彼は尋ねた。 ヘスは濡れた口元を袖で拭い、それから板葺きの屋根を見上げて「ここの家の屋根は大方終わったな」と答えた。「明日には別の屋根に取り掛かる予定だ」「もうですか!」 アルルは目を丸くした。他の職人たちと比べても伯父の手が随分早いことは知っているが、それにしたところで凄い。「魔術みたいな早さだ」「あまり待たせるわけにはいかんからな」 ヘスは革袋に栓をして、麺麭と乾酪をそれぞれ手に取った。昨日の朝焼き上げられたばかりの黒麺麭はまだ充分に柔らかい。何かに浸さなくてもそのまま食べられるだろう。「だが、職人の誇りにかけて、手抜き仕事はしてないぞ?」ヘスが麺麭と乾酪に交互に齧りつきながら言った。「ええ、伯父さん。わかってます」 伯父は仕事が丁寧であることでも評判なのだ。それも知っている。アルルは頷いて微笑んでみせた。「そうか」 ヘスは咀嚼した麺麭と乾酪を飲み下すと、「どうだ、上がって見てみるか?」と立てた親指で梯子を示した。「あー……いえ、僕は」 アルルは口ごもり、視線を泳がせる。「せっかくですけど」「ああ」 ヘスが苦笑する。「高い所はまだ駄目か」「すみません」 アルルは首をすくめる。自分でも情けないとは思うのだが、高所に上がると考えるだけで、どうにも足がすくむのだ。「屋根に上がれればなあ、仕事を教えてやれるんだが」 残念そうにヘスが唸る。(ごめんなさい、ヘス伯父さん。伯父さんはそう言ってくれるけど、僕は屋根職人には向いていないと思うよ) アルルは思った。以前から自分の後を継がないかと言ってくれている彼には申し訳ないのだが、本当に駄目なものは駄目なのだ。理由もいつからそうなったのかも不明だが、アルルは自分の頭より高い場所へ上ることができない。アルル自身、何とか慣れないだろうかと努力してみたのだが、上った途端蒼白になって動けなくなってしまうのでは、これはもう無理だと諦めるよりほかにないではないか。「僕はたぶん、地面の上での土いじりやなんやかの方が向いてるんですよ」 憂鬱に呑まれかける気分を吹き飛ばすように努めて明るく言って、アルルは肩を竦めてみせる。それから、「そうか」と苦笑するヘスより返された空の籠を受け取った。「それじゃ伯父さん、僕はこれで。あ、何か伝言でもあります?」「ああ、そうだな。俺の娘とウレリに、今日は早めに帰ると伝えておいてくれ」「早めにですね。わかりました。じゃ、また後で」 アルルは手を振ってヘスの下を離れた。 ヘスから遠ざかるにつれ、陽気に振舞った反動か、追い払ったはずの憂鬱がじわじわと戻ってくる。父の死後、母とともに身を寄せた伯父の下ではよくしてもらっている。従姉のターグは優しく、伯父のヘス自身もアルルを息子同然に扱ってくれるし、先ほどのように屋根職人の仕事を覚えて後を継がないかとまで言ってくれている。差し出される食事と温かい寝床に――今の家族に不満など持ちようもない。だが、自分はもう十八、とっくに成人している年齢だ。普通なら独立して自分一人くらい養えなければならない年頃のはずである。仮に将来誰かと所帯を持つ事を考えても、このまま伯父の下に身を寄せる生活を続けていく事ははっきりと無理があるだろう。伯父の後を継いで職人になるつもりがないのならなおさらだ。(土いじりなら好きだし得意なんだ。現に僕が家の裏手に作ってる菜園はうまくいってる) 幸いにも今はあちこちで森を切り開いての開墾が盛んである。伯父のヘスのような頑強な体を持たない自分は多少苦労するかもしれないが、どこかの開拓団に入れてもらって農夫になるのがいいのではないだろうか。そう考えて、しばらく前からこつこつと費用も貯めているのだ。蓄えとしてはまだまだ少ないが、数日程度なら飢えずに一人旅ができるくらいには貯まってきている。 アルルが寝床の下に隠してある金の額を計算しながら足を動かしていると、何か軽いものに体がぶつかった。 短い悲鳴が上がり、小柄な人影が転がる。 跳ね飛ばされて転がり伏したのは、さらした樺枝の繊維のように髪の白くなった老婆だった。見たことのない顔だ。老婆のすぐ傍らに転がっている杖と肩から掛けていたと思われる荷物からするに、どうやら旅の途中であるらしい。考え事をしながら歩いていたせいで、前から歩いてきた彼女がアルルの視界には入っていなかったようである。「すみません、お婆さん! ぼんやりしてて!」 アルルは慌てて駆け寄り、老婆を助け起こした。「怪我は」 ざっと全身を見まわす。いくらかの擦り傷こそあるものの、それ以外には特に大きな傷などは見当たらない。「良かった、大した怪我は無いみたいだ。立ち上がれます?」「はい、はい、大丈夫です。大丈夫ですとも」 助け起こされるままよろよろと立ち上がった老婆は、ふとアルルの顔に目を留めると、大きく目を見開き、思いがけぬほど強い力で彼の腕を掴んだ。「アルル……ッ」「はい?」 アルルは、ぱちくりと目を瞬かせる。「アルル、アルルッ、ああ、本当にあなただ。ようやくあなたを見つけられました!」 驚くアルルをよそに白髪の老婆は、いきなり彼の胸にすがりついて泣き出した。 一体これはどうしたことだろう。アルルは困惑する。老婆とどこかで会ったことがあるだろうかと記憶を探ってみるが、特に思い当たる節はない。次いで顔を見た途端感極まって泣き出されるような理由も考えてみたが、はるばる他の土地からやってきた赤の他人に探されていたという事自体がそもそも意味不明である。 おいおいと声を上げ泣きじゃくる老婆にしがみつかれて、アルルの困惑は深まるばかりだ。「あ、あの、お婆さん? しっかりしてください」 彼の困惑が伝わったのだろう。ようやく老婆が顔を上げた。「アルル?」「ええ。確かに僕の名前はアルルですが」 それには間違いないのだが。 老婆の涙に塗れた濃い青の瞳が、今度は信じられないという風に見開かれる。そのような莫迦なことは無いというように。「アルルには、私がわかりませんか?」 アルルは首を傾げてみせる。「何の話だかさっぱり」「そんなはずは……」 老婆が呻く。たよりなげに視線が彼の上をさ迷い歩いた。「アルルが……あなたが私を忘れられるはずがない」 アルルは困った顔をしてみせる。そうは言われても、知らないものは知らないのだ。「お婆さん……」 道端でいきなり取りすがって泣き出されて、アルルとしてはいい迷惑だとしか思いようがない。「一緒に沼地の怪物を退治した時には、この爪が奴の目を抉りました。疫病を封じた村では、あなたは私の涙を使って、患う人々に癒しを与えました。満月の夜にだけ湖に現れる島の洞窟で、青い火を掲げて太古の言葉を写し取る手伝いをしたこともあります。思い出してください。あなたと共に、たくさん、たくさん、旅をして回ったフィーを。どうか、アルルお願いですから」 白髪の老婆は、祈るように皺だらけの手を組み合わせて訴える。「どうか、アルル」 老婆はもう一度繰り返し、アルルを見つめた。 沈黙するアルルの緑灰色の瞳を、星空のような濃い青の瞳が覗き込む。老婆はアルルの目の奥に、彼女に関する何かが一欠片でも沈んではいないかと探しているようだった。 絶望の呻きが喘ぎとなって転がり落ちる。「アルル・ケスには、この私が、フィグニステルが本当にわからないというのですか?」 衝撃からかよろめく老婆を支えながら、「ああ……」とアルルは苦笑していた。老婆が語ったのは『〈竜の舌〉の魔術士』の物語である。フィグニステルというのはその話に出てくる名前だ。〈竜の舌〉の魔術士の旅の仲間であり、彼の忠実な友である〈不思議〉の存在。ようやくわかった。おそらく老婆の中では、聞き覚えた作り話と現実が混ざり合って区別がつかなくなってしまっているのだ。 気の毒に。きっと先ほど打った箇所が悪かったに違いない。そう納得しはしたが、しかし、未だ困った状態であることに変わりはないのである。混乱した老婆の言動は迷惑ではあるのだが、原因がアルルとぶつかった事にあるのなら、このまま放り捨てて立ち去ってしまうわけにもいかない。 さて、どうしたものか。アルルは暫し考えを巡らせる。老婆の混乱が一時的なものであるかはわからないが、いずれにしろ怪我の手当てと休息、場合によっては長期の療養が必要だろう。ヘスたちへの説明が面倒ではあるが、家に連れて帰るべきだろうか。それとも修道院で世話して貰えるよう、司祭様たちに頼む方が良いだろうか。いや、待てよ。(確か昨日から修道院長様は御用事があってお留守だ。副院長様以下司祭様や助祭様、他の修道士様たちは、他所から来る人間を泊めるのがあまりお好きではないって聞いているし。そうするとお婆さんみたいな人を引き受けてもらうのはきっと難しいな) やはり仕方がない。伯父や母、ターグには驚かれるだろうが、旅人をもてなすことは昔からの世の慣習ならいでもある。 アルルは腹を決め、口を開く。「お婆さん、とりあえず話の続きは僕の家で――」