第66話 ほっとしたの (1/1)

時が止まったようだった。 戦場が放心していた。パニーの説明はナウマやマロナに比べれば拙かったが、ある程度勘のいい者は言わんとするところを理解できたし、その可能性を、一度も考えたことのない者のほうが少なかった。ガダナバすら、先程蹴り飛ばされた怒りを忘れ、呆然としている。 その中で最も衝撃を受けている者のひとりが、アシュラドだった。 戦っていたことも、『操作』で身を守る過程だったことも頭から喪失し、意識ごと刈り取られたように四肢から力が失われている。 それを遠間から見つめるのはサイだ。かける言葉が見つからない様子で佇んでいる。 やり直せる。 その可能性はアシュラドにとって火にくべる薪、機械仕掛けの玩具にとってのゼンマイだった。何年も何年も続く長い後悔と苦悩の中、ようやく見えたひと筋の光明だった。 それが切れた今、事実を受け止められずにか、あるいは受け止めた結果として生を放棄しようとしているのか、黒目の焦点は合わず、牙の覗く口はだらりと開いている。 しかしまた、その深刻な放心から最も早く意識を取り戻したのも、アシュラドだった。「……め……なさ……」 泣き声があった。 幾度も幾度も繰り返されるそれは、ごく間近から聞こえた。 太陽の光が遮られ、アシュラドの顔に影ができた。 声は、同じ言葉を繰り返しているようだった。 それが場に似つかわしくないものだと気付いたとき、アシュラドの焦点は現実に合った。 ごめんなさい。 声は、そう言っていた。 膝を突くアシュラドの右手に、柔らかいものが触れた。温もりに持ち上げられて顎を傾けると、目の前にパニーの泣き顔があった。 いつこんな近くまで来たんだと思いつつ、アシュラドは夢の中にいるように言った。「どうして……お前が謝る」『全てを取り戻せる可能性がある、と言ったらどうする?』 サバラディグで、そう声を掛けたのはアシュラドだ。『『時の賢者』は実在する。俺たちはそいつを見つけ出し、そして、過去をやり直す。 どうだ? 時を遡り、やり直すことができるなら……お前は、どうしたい?』 パニーが笑わなくなって、感情を殺していたのは、心を守るためでもあっただろう。 それを無理矢理こじ開け、連れ出した。『俺たちと来るか? パナラーニ』『いかない』 拒否され、半ば誘拐までした。 ありもしなかった希望をちらつかせておいて、辿り着いたのがこの結果なら……むしろ謝らねばならないのは自分だろう、と思う。(俺が、『説得を頼む』なんて言ったから) パニーはその絶望的な真実を、直接、不意打ちで聞かされることになった。 その瞬間の心情を思うと、鈍くなったアシュラドの胸にすら、ひりつくような痛みが滲む。 しかしパニーはなおも「ごめん……ごめん、なさい……」 としゃくり上げながら重ねる。 アシュラドの胸にあまりに不憫だという想いがのし掛かり、眉間に皺が寄る。「お前が謝る理由なんてない。ナウマを説得できなくて、という意味なら、そもそも」「ちがうの」 半ばで、謝罪以外の言葉が遮った。「……違う?」 そのとき、パニーとまともに目が合った。 パニーの両手はアシュラドの右手を祈るように握り締めている。それゆえ、拭うことのできない涙がとめどもなく頬を流れ、顎から滴っている。 濡れて光る紅い瞳を、こんなときですら比べるものがひとつもないほどに美しいと思う。 無意識に左手が伸びる。 ひと差し指が涙をせき止める寸前、留めるようにパニーの唇が動いた。「ほっとしたの」「え……?」 なんと言ったのか理解できずに、間の抜けた声を出す。 パニーは目を逸らさない。「戻れないんだとわかって、わたしは、ほっとしちゃったの」 冗談を言っているようには見えなかった。アシュラドの口が、歪む。笑みの形になるが、愉快とはほど遠い感情が漏れ出す。唇の端は両方とも小刻みに震えていた。「……なにを……言ってんだ……?」 まるで、おかしくなりそうなのを、誤魔化してやり過ごそうとするような笑みだった。「っはは…………意味が、解んねえ……」 パニーは手を離さない。目を逸らさない。「ごめん……なさい」 と、さらに謝った。 その瞬間アシュラドの脳が沸騰する。 伸びかけた左手が軌道を変え、パニーの喉を鷲掴みにした。苦悶の呻きが漏れる。「なにを……言ってんだ……!?」 当然キリタは黙って見ていない。「きさ」と言いかけて駆け寄ろうとするが、サイが腕を強く握り締めて止めた。「キリたん。待ってくれ……!」「何故止める!」「少しでいい! 頼む……ッ!」 有無を言わせぬ声に、キリタは血が出るほど強く唇を噛んでアシュラドを睨んだ。「もう、どうでもいいって言うのか!」 アシュラドは正気を失いかけた爬虫類の目でパニーに迫る。「最後のひとりになって……途方に暮れていたんじゃないのか!? 助けたかったんじゃないのか? 親を、兄弟を、仲間たちを……! やり直したかったんだろう!? もっとやりようがあったんじゃないかと、己の未熟と無力を呪ったんだろう!? 誰も……誰も死ななくても、殺さなくても、いい方法が……」 叫びながらアシュラドの顔は歪んでいき、勢いを失ってゆく。「どうして……」 絞り出した声はもはや、悲鳴に等しかった。「…………どうして……こんなことになった。 こんな思いになるくらいなら、命なんて、くれてやったのに……」 萎えた左手が離れ、パニーが咳き込む。「アシュ……ラド」 咳で引っかかりながら呼ばれる。同時に、右手を強く握り締められる感触があった。 うなだれかけたアシュラドが、死者の声を聞いたかのような速度で顔を上げる。 そこでようやく気付いたのだ。 首を絞められても咳き込んでも、パニーが一度もアシュラドの手を離さなかったことに。「……パナ……ラーニ」 咳をおさめたパニーの、初めて見る表情があった。 喉が引きつる。 顔面の皮膚が得体の知れない力によって外側へ引っ張られるのを止める術を知らない。 パニーは眉間に皺を寄せながら、鼻水を垂らしながら、ぐしゃぐしゃに濡れた目尻を垂れさせ目を細め、歯を見せて口元を吊り上げていた。 作られた表情ではないことはひと目で解った。 しかしなんの引け目もない、とは間違っても形容できない。 それでもパニーが、はっきりと笑っていた。 眼球から涙が滲むことを拒絶するように、アシュラドは極限まで瞼を開く。 決壊寸前の堤防を身体ひとつで押さえ続けるような心境で、絞り出す。「何故……そんな顔ができる……そんな風に笑える」 質問したつもりはなかった。 パニーもまた、そんな風には取らなかった。それでも答えは、明確だった。 ある意味ではパニーは、その言葉を待っていたのだ。「アシュラドが、来てくれたから」 さらりと放たれたひと言が、急所を正確に突く刃のようにアシュラドの胸を打った。