第67話 殺す気かっ (1/1)

「わたしたちは……過去に戻ってやりなおすことはできないんだね?」 そう言って部屋を出ようと背を向けたパニーは、しかしそのまま部屋を出ることはできなかった。行く手に、遮る身体があったからだ。 ヘレナスが、通せんぼをするように両手を広げ、静かに首を横に振った。「あなたたちは、過去の使い方を間違ってます」 静かな声は、揺るがない意志に満ちていた。「ヘレ……ナス?」「いいですか? 誰でも知っている、当たり前のことを言いますよ」 どこにでもいるような、長い髪をひとつに束ね、大きめに編み込んだ黒髪の少女は、目に涙を溜め込みながら、真っ直ぐ言った。「ひとは、今以外生きられないんです」 その、月並みな言葉に、パニーはむしろ呆然とした。 そんなことはもちろん解っていた。それが当たり前だから、パニーはサバラディグで絶望していたのだ。それが当たり前だから、やり直せると聞いてここまで来たのだ。 しかしヘレナスはもちろん、パニーが本当にそれを知らないとは思っていない。「『馬鹿にするな。そんなことを今さら聞きたくない』……そう思いましたか?」 パニーは答えない。しかし、意識は部屋の外ではなく、ヘレナスに向いていた。「私は、そう思いました。そうとしか思えませんでした」「え……」「私だけじゃありません。この町のひとたちはみんな、そうです。ナウマ様……いえナウマも、私も、全員がなにかを失い、流れてきたんです。そんなことは、誰にでも起こり得る」「そ」「『そんなわけない。種族全てが滅びる経験なんて』……ですか? だけど、大切なものを失う絶望は、客観的な対象の希少性や数とは関係ないし、比べるものじゃありませんよ」 パニーはあっけに取られる。ヘレナスの口調も顔つきも、姿形とは似つかわしくない。涙を浮かべているものの、まるで正しく年を重ねた老人のように理知的だった。「不思議そうですね? どうしてただの女がそんなことを言うのかって。 市井の人間を舐めないでください。それに……私たちは、全員で『時の賢者』ですから」「な……っ?」驚いたのはマロナだ。「ああ……」ナウマが額を押さえた。「言っちゃったよ」「ど、どういうこと?」 マロナの質問に、「まあいいか」と息を吐いてナウマが答える。「わしは、対外的な顔、ってやつさ。目が三つあるからそれっぽいだろって理由で。あとこれと言って特技もないし、面倒くさがりなのは本当だし、ここで賢者としてそれっぽいことを言い、どうしても賢者と話さないと納得いかないひとの相手をするって役割なの」「な、なんでそんなこと?」「んー、理由は幾つかあるけど、例えば賢者の力を利用しようとする連中が来て、力尽くで言うことをきかせようとしたときのためさ」 不思議そうな顔をしたマロナに、ナウマはあっさりと言う。「賢者は殺されても言うことを聞かない。けど、殺してしまった連中は、諦めるしかない。かくしてこの町の本当の賢者たちは、ひとりを失うだけで事なきを得る」「そんな……」「ああ、万が一の話ね。仲間だから、みんなぎりぎりまでなんとかしようとしてくれるだろうし、その重責と引き替えに、見てのとおり普段めっちゃだらだらさせてもらってるから」 今正にその『万が一』が起きかけていることなど認識していないような態度だった。「話を戻すと、この町の全員がそれぞれの能力を駆使して町を維持しているから、全員が『時の賢者』だということなんだけど、ひとりひとりがなにをどう担当しているかは、市井に紛れ込んだひと握りしか把握しないようになっていてね。実際のところ、わしが細かくはなにを担当しているかヘレナスだって知らないだろうし、逆も然り。 ただ、情報共有は全員にされる。特にこの町に訪れる者のことはね。 だからごめん。さっき少しだけ嘘の態度を取った。 ヴィヴィディアの姫、パナラーニ。 ブレディアの英雄、エスペロ。 聞く前から君たちのことは知ってたよ。 ヘレナスの言葉は、その上でのものとして聞いてあげてほしい」 ナウマはヘレナスに続きを促す。どう受け取っていいのか解らない状態になったパニーの、心にできた僅かな隙を突くようにヘレナスがもう一度言った。「『ひとは、今以外生きられない』」 ナウマに向いていたパニーの顔が、ヘレナスに戻る。「これは教訓でもなんでもない、ただの事実です。大切なのはこの先。『だから過去も未来も、今のために使え』 これが私たち、時を識る者たちの、結論です。けどこれも教訓じゃありません」 ヘレナスはパニーの両手を握る。目を覗き込んで、言った。「命懸けでそうしろって、全てのひとに押しつけたい、ただの想いです。私が、個人的に」 愛らしい目は笑っていない。冗談めいた響きは欠片もない。「今の邪魔をする過去なんて、要らないんです。 忘れて、捨てて、なかったことにすべきです。 やり直したい、とかたわけた夢見がちなことを仰るくらいなら、ヴィヴィディアが滅びたことなんて忘れましょう。ていうか、そもそも自分がそんな種族だってことも覚えてる必要ないです。だってもう、いないんですから」 パニーはヘレナスの腕を振り解く。一瞬で頭の底が冷え、言葉を失う。 数秒後、反動のように押さえきれないほどの熱が全身に回る。「できるわけないでしょ!?」 叫んだら、止まらなくなった。「わたしが忘れたら、ほんとうに消えちゃう。いらないわけないじゃん! ぜんぶ……わたしにとっては大事なんだ! ぜったい、ぜったい忘れたりなんかしない!」 大きな声を出し過ぎたせいか、頭の奥が揺れて目眩がした。 ヘレナスはなおもパニーを真っ直ぐ見ていた。パニーの大声に驚くこともなく、言った。「だったら、今を生きる糧にしてください」「……え?」「捨てられないなら……どんなに時間をかけてでも、今を不幸せにする理由にするのを、やめてください。過去のせいで、今を台無しにする自分を肯定しないでください。 その記憶を捨てないまま幸せになることを、諦めないでください。 その過去を……今をよりよくするためだけに、使ってください。 他でもなく、その記憶にある、あなたの大切なもののためにも」 ヘレナスは切実な声で言い切ると、微笑んだ。そして両手を伸ばし、パニーの背中に回す。 一度も声を荒げることもなかったヘレナスの言葉に、パニーは細胞のひとつひとつを叩かれたように脱力していた。筋肉が弛緩し、顎が垂れ下がり、口が開く。そこから「……いいの?」 自覚もないほど純度の高い、本音が漏れた。「……やりなおせなくても、忘れなくても……自分を否定しなくて……いいの……?」 嗚咽がした。 それは、背後からだった。 振り向くと、普段のイメージを根底から覆すほどぼろ泣きのマロナが、口を押さえていた。「パニー……あたし」 マロナが近付いてくると、ヘレナスはパニーの身体から離れた。支えを失ったパニーがよろけたところを、マロナが受け止めた。その瞬間、「あたし本当は……過去に、戻りたくなんてなかった……!」 号泣と共に思い切り抱き締められる。「アシュにも、パニーにも、いなくなってほしくなかったよ! せっかく……やっと、居たい場所を見つけたのに。アシュとパニーの思いを知ってても、身勝手だと解ってても、失うのが怖かった。 酷い……酷いよね。ごめんねぇ……っ!」 もちろん、マロナを責める感情は全く湧いてこない。 つられるようにパニーもまた涙を流す。目を開けていられない。「マロナ」身体を掴むと、抜けていたはずの力が入った。「マロナ……マロナぁっ……!」 一体どれだけ流れれば枯れるんだろう、と思いながらパニーはマロナにしがみつく。 しかしその行為が、感傷的な雰囲気を一瞬で破壊した。「あ、あた! あだだだだっ! パニー! 痛い折れるぅうううっ!」「あ」 骨が軋む感触に気付いて手を離す。感極まって、力加減を忘れていた。「こっ、殺す気かっ! 確かに酷い女だとは認めたけどさ!」 本気で切羽詰まった様子で言うので、思わずパニーは噴き出す。「ご、ごめんね。全然そんなつもりじゃ……はは」「え。パニー……笑っ……」マロナが目を剥き出しにして口を押さえる。「かっ……」「か?」「可愛過ぎか!」 性懲りもなくマロナがまた抱き締めてくる。 温もりを浴びながら、今度は絞め殺さないように、そっと背中に手を回した。 そしてマロナの体温が身体に馴染み、溶け合ったころ、目を閉じたままパニーは言った。「伝えてくるね。マロナのぶんまで」